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嘉穂劇場よりお知らせ。 9/19~22の4日間は予約なしで見学できます!

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鹿毛馬神籠石(かけのうま こうごういし)
鹿毛馬神籠石は、鹿毛馬川に面した馬蹄型の丘陵地に形成された神籠石で、築造年代や目的については諸説ありますが、おおよそ7世紀頃(1400〜1300年前)に造られた古代の山城というのが一般的です。 通常は、神籠石は200メートルを越える高い場所に築かれる事が多いのですが、鹿毛馬神籠石は、30〜80メートルの低い丘陵地に築かれている事が特徴的です。列石は約1,800個もの切石が使われ、全長約2キロメートルに渉って土塁の腰石が形成されており、標高の低い場所に建てられており、谷部には暗渠式(あんきょしき)の水門が2ヵ所あります。水門跡の調査で、7世紀前半の須惠器甕破片(すえきかめはへん)が出土し、築造年代に手掛かりを与えました。 鹿毛馬神籠石は、昭和20年2月に約3万4302㎡が国の指定史跡に指定され、平成14年3月に追加指定を受け、総面積35万8238㎡となっています。 ■牧野神社 牧野神社(まきのじんじゃ)は昔、「鹿毛馬神籠石」(国指定史跡)の中に鎮座されていました。明治時代中期に焼失後、御神体は厳島神社に合祀されました。 【御祭神】 狹野尊(さぬのみこと/神武天皇の幼名) 大山積命(おほやまつみのみこと) 保食命(うけもちのみこと) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) ■由来 神武天皇が、狭野命(さぬのみこと)と申されていた時、豊前國の求菩提山を経由して鹿毛馬村を訪れ、山麓の野に多くの馬が群れていたのをご覧になり馬の牧(牧柵/牧場)を開かれたといいます。 以来、五月朔日から7日までの間、馬を使うことを禁止し、その間に大祭が執り行われていたそうですが、文暦元年(1234年)に牧が廃され、以後神社も荒廃するにしたがい元龜年間(1570〜1572年)に嚴嶋神社の相殿に合祀されました。 現在も「嘉麻郡の鎮守神」として鎮座しています。 また、鹿毛馬(かけのうま)の地名は、昔 鹿毛馬神籠石の周辺にあった馬の牧より、鹿毛(馬の毛色の一種)の良馬がでていたことに由来するといいます。 〜『筑前國續風土記』 〜 小堤山、古家山とて、いにしへ馬牧ありし所あり。四方に石垣を築廻(きずきめぐら)はせり。めぐり二十町許(あまり)あり。此れ牧より鹿毛の良馬出す事ありて、村の名とせしにや。 ■神籠石各地所在地 (国指定史跡) 名称 読み 所在地 指定年月日 おつぼ山神籠石 武雄市橘町小野原 昭和41年(1966)5月21日 帯隈山神籠石 おぶくまやま 佐賀市久保泉町川久保 昭和26年(1951)6月9日 女山神籠石 ぞやま みやま市瀬高町大草 昭和28年(1953)11月14日 高良山神籠石 こうらさん 久留米市御井町高良山 昭和28年(1953)11月14日 雷山神籠石 らいざん 前原市雷山 昭和7年(1932)3月25日 御所ヶ谷神籠石 ごしょがたに 行橋市津積 昭和28年(1953)11月14日 杷木神籠石 はき 朝倉市林田 昭和47年(1972)12月9日 唐原神籠石 とうばる 築上郡上毛町下唐原 平成17年(2005)3月2日 阿志岐城 あしき 筑紫野市阿志岐 平成11年(1999)

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柳原白蓮 歌碑(やなぎはらびゃくれん かひ)
柳原白蓮歌碑 「筑紫の女王」とも呼ばれ、飯塚に縁のある歌人柳原白蓮の歌碑が旧伊藤伝右衛門邸近くと嘉穂劇場近く、飯塚商工会議所近くの遠賀川河川敷、北九州に向かって左岸に計3基建立されています。 ■歌碑概略 ■嘉穂劇場側の歌碑概略■ 師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして 解説 早春の頃に自分の師が遠い九州の地に来て頂く折に博多駅へ出迎えに行く途中、八木山は新緑に萌え、若葉に自分の心境をだぶらせ、清清しい気分で峠を越え師との再会に心も弾んでいた気持ちを表した歌です。 ■飯塚商工会議所側の歌碑概略■ 遠賀川 小暗き中に 銀色の 光りは長く 夜は明け染めぬ 解説 遠賀川は、うす暗い中にも川面は銀色に輝き、夜が明けていく風情を詠った歌です。 ■旧伊藤伝右衛門邸側の歌碑概略■ おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ 解説 晩年にわが身をふりかえり月の満ち欠けと自分の一生を思い合わせて「わがこしかたに何をなげかむ」と強く生きる覚悟を表した歌です。 ■『踏絵』 白蓮著 『踏繪』は柳原白蓮が最初に出した歌集で、若き白連の告白的短歌の結晶といわれ、大正4年3月に竹柏会より出版されました。「白連は藤原の女なり。」で始まる序章は佐佐木信綱、装丁は竹下夢二による物です。浪漫的であでやかな作風、夢と悩みと憂愁と沈思のこもった300余首が綴られています。 『踏絵』には、夫の愛情を感じられない暮らしから生じた悲痛なまでの孤独や、鮮烈な言葉で恋心を詠んだ火のような歌が数多く詠まれています。白蓮は、その処女歌集により歌詠みとしての名声を手にしました。 その後、戯曲『指鬘外道』を通じて宮崎龍介と運命的な出会いを果たします。事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。 『踏繪』は旧伊藤伝右衛門邸内「ミュージアムショップ白蓮」、飯塚観光ネットショップにて販売しています。 ■白蓮の生涯 絵葉書 柳原白蓮 柳原伯爵の家系で愛育された白蓮は、14歳で子爵北小路家に嫁ぐも5年後に離婚。その後27歳のとき、一代で巨万の富を築いた立志伝中の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再婚し筑豊の地へ嫁ぎました。大正天皇の従妹にあたる白蓮を迎えた伝右衛門は、豪奢な住まいを用意し、歌集の出版を後押しし、金銭的に何不自由ない暮らしを与えました。しかし、白蓮は伝右衛門の愛情を感じることができず孤独に懊悩し、その苦しみを歌に託すことを生きがいとします。大正7年、白蓮が記した戯曲を通じて知り合った7歳年下の宮崎龍介と出会い、700通のラブレターを交わすほど熱烈な恋に落ち、大正10年に事件を起こします。  「・・・私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。・・・」という内容の伝右衛門への絶縁状を新聞紙上に公開して駆け落ち。姦通罪がある時代に白蓮が起こしたこの行為は、当時大きな波紋を巻き起こし白蓮事件と呼ばれました。 事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。

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