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長崎街道の「冷水峠」は、現在の国道200号線よりさらに登った場所にあり、九州の箱根といわれ、2里20町(約10キロ)の天険は長崎街道最大の難所でした。
黒田節の主人公母里太兵衛が黒田長政の命を受け、内野太郎左衛門の協力によって内野宿と冷水峠の開削を慶長年間に行ったと福岡藩記録に残されています。
江戸時代には参勤交代やオランダ商館長、長崎奉行、幕府高官等の往来など交通が頻繁に行われていました。シーボルト、吉田松陰、伊能忠敬など、幾多の人々や、将軍徳川吉宗への献上象などもこの峠を通ったとされており、歴史を感じる事のできる場所です。
筑紫野市山家から冷水峠を越えて内野に至る区間は、「平成8年文化庁の歴史の道百選」に選定されました。

■冷水峠遊歩道入口
◆冷水峠遊歩道入口 山家宿側
国道200号線沿い、筑紫野市の標識近くに大根地神社の鳥居と看板があります。階段を上ると旧長崎街道にでます。九州自然歩道にもなっており、長崎街道冷水峠・内野宿方面へ進んで行きます。この辺りは軽自動車が通れる道幅がありますが、内野宿側の峠には雨の日でも滑らないように石が敷き詰められており、徒歩のみ通行できます。
※現在は、石畳が苔に覆われており、雨の日は大変よく滑るので充分に気を付けてください。

◆冷水峠遊歩道入口 内野宿側
国道200号線沿い、内野荒田の鳥居から冷水峠頂上まで徒歩で約40分。その途中に「冷水トンネル」「首無し地蔵」と「オールコックの石橋」があります。内野荒田から入り、麓の集落と田畑を過ぎると道の勾配は段々ときつくなります。
森に入り始めるころ、足元に石畳の舗装が散見されるようになります。
※国道200号線沿いは歩道がないため、車には十分にご注意ください。

■大根地神社登り口鳥居/郡境石
◆大根地神社鳥居
冷水峠の頂上に大根地神社鳥居があります。長崎街道に面し、大根地神社参道入口として建てられたもので、鳥居の手前に「大根地宮十四丁」及び「正一位稲荷別格大々祀式鎮座」の石標柱が建っています。

◆郡境石
郡境を明確にするために、冷水峠に建てられた穂波郡と御笠郡の郡境石。鳥居の建っている側に「御笠郡々境石」道路向側に「筑穂郡々境石」が建っています。
※鳥居の前の広場には、休憩するための茶屋があったそうです。

■民話 首なし地蔵/冷水峠の由来
◆民話 首なし地蔵
昔、悪者がこの峠で旅人を殺害した。悪者はこのことを道ばたのお地蔵様に向かい、誰にも言うなという。お地蔵様は「ワシは言わぬがわれ言うな」という。悪者は驚いてお地蔵様の首を叩き落として行方をくらました。
その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。谷川の水で喉をうるおし、お地蔵様を拝すると首がないのに一人は驚くが、もう一人の男はあの悪者であった。「ワシは言わぬがわれ言うな」のお地蔵さまの言葉を忘れて、その首のないわけについて、何年前かの自分の仕業を自慢げに白状した。話を聞いた男は、前にここで殺された旅人の血縁であったので、仇打ちが行われた。

◆冷水峠の由来
首無し地蔵堂の前を流れる小川。雑木林と杉木立の中を流れる清流に古い石橋が架けられています。橋は2枚の花崗岩の板石を両端の石垣のみで支持する板石橋の形式を採ります。下流側の板石側面に文政六年(1823)の銘が刻まれています。イギリスの初代駐日総領事オールコックは、その著書に『画家が描くにはふさわしい景色が多かった』と書き記しています。当時、多くの旅人がこの場所で足を休めたと言われ、冷水峠の名の由来はこの川の清流に由来すると言われています。

■散策マップ
詳しくは「長崎街道歩こうマップ」トップページよりご覧いただけます。

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名称冷水峠(ひやみずとうげ)
住所福岡県飯塚市内野
アクセス・大分自動車道 筑後小郡ICより 約25分 ・九州自動車道 鳥栖JCより 約30分 ・九州自動車道 福岡ICより 約50分 ・JR筑豊本線 筑前内野駅より 徒歩約30分(内野荒田の入口まで)
HPhttp://kankou-iizuka.jp/nagasakimap/kaido-top.html

33.51232717

130.618118

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冷水峠(ひやみずとうげ)

福岡県飯塚市内野

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柳原白蓮 歌碑(やなぎはらびゃくれん かひ)
柳原白蓮歌碑 「筑紫の女王」とも呼ばれ、飯塚に縁のある歌人柳原白蓮の歌碑が旧伊藤伝右衛門邸近くと嘉穂劇場近く、飯塚商工会議所近くの遠賀川河川敷、北九州に向かって左岸に計3基建立されています。 ■歌碑概略 ■嘉穂劇場側の歌碑概略■ 師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして 解説 早春の頃に自分の師が遠い九州の地に来て頂く折に博多駅へ出迎えに行く途中、八木山は新緑に萌え、若葉に自分の心境をだぶらせ、清清しい気分で峠を越え師との再会に心も弾んでいた気持ちを表した歌です。 ■飯塚商工会議所側の歌碑概略■ 遠賀川 小暗き中に 銀色の 光りは長く 夜は明け染めぬ 解説 遠賀川は、うす暗い中にも川面は銀色に輝き、夜が明けていく風情を詠った歌です。 ■旧伊藤伝右衛門邸側の歌碑概略■ おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ 解説 晩年にわが身をふりかえり月の満ち欠けと自分の一生を思い合わせて「わがこしかたに何をなげかむ」と強く生きる覚悟を表した歌です。 ■『踏絵』 白蓮著 『踏繪』は柳原白蓮が最初に出した歌集で、若き白連の告白的短歌の結晶といわれ、大正4年3月に竹柏会より出版されました。「白連は藤原の女なり。」で始まる序章は佐佐木信綱、装丁は竹下夢二による物です。浪漫的であでやかな作風、夢と悩みと憂愁と沈思のこもった300余首が綴られています。 『踏絵』には、夫の愛情を感じられない暮らしから生じた悲痛なまでの孤独や、鮮烈な言葉で恋心を詠んだ火のような歌が数多く詠まれています。白蓮は、その処女歌集により歌詠みとしての名声を手にしました。 その後、戯曲『指鬘外道』を通じて宮崎龍介と運命的な出会いを果たします。事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。 『踏繪』は旧伊藤伝右衛門邸内「ミュージアムショップ白蓮」、飯塚観光ネットショップにて販売しています。 ■白蓮の生涯 絵葉書 柳原白蓮 柳原伯爵の家系で愛育された白蓮は、14歳で子爵北小路家に嫁ぐも5年後に離婚。その後27歳のとき、一代で巨万の富を築いた立志伝中の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再婚し筑豊の地へ嫁ぎました。大正天皇の従妹にあたる白蓮を迎えた伝右衛門は、豪奢な住まいを用意し、歌集の出版を後押しし、金銭的に何不自由ない暮らしを与えました。しかし、白蓮は伝右衛門の愛情を感じることができず孤独に懊悩し、その苦しみを歌に託すことを生きがいとします。大正7年、白蓮が記した戯曲を通じて知り合った7歳年下の宮崎龍介と出会い、700通のラブレターを交わすほど熱烈な恋に落ち、大正10年に事件を起こします。  「・・・私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。・・・」という内容の伝右衛門への絶縁状を新聞紙上に公開して駆け落ち。姦通罪がある時代に白蓮が起こしたこの行為は、当時大きな波紋を巻き起こし白蓮事件と呼ばれました。 事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。

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