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曩祖八幡宮は、福岡県飯塚市に鎮座する氏神様です。旧社格は県社、現在は神社本庁の別表神社。旧称納祖宮です。飯塚の鎮守として崇敬され、また子守りの神としても信仰されています。 曩祖八幡宮は、紀元861年に、神功皇后が現在の当神社境内地である飯塚市宮町を聖地と選び定め、朝鮮征伐の際に戦捷報告の神事を執り行った事に始まります。以来、この地の里人はこの聖地を『曩祖の杜(のうそのもり)』と称え、祖先の霊を祀り、後に長崎街道の宿場街として栄えた飯塚の氏神さま(地元の護り神)として多大な信仰を集め今日に至ります。 当神社にて行う初宮詣の子安台は、神功皇后がこの地で戦捷報告の祭典を行った際、御子である応神天皇を『壇の上』に寝かせた事から、その古事に習い古くから行われて来た曩祖八幡宮独特の神事です。 【祭神】応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰および天神地祇を祀っています。 【歴史】神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。 社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。 【境内末社】 若光稲荷神社・祇園宮・天満宮・志賀神社・大神宮・住吉神社・水守神社・産乃宮・十日恵比寿社・三日恵比寿社・生目神社 ※境内末社というのは、曩祖八幡宮の境内のなかにあります別の神様を祀ってある小さなお社(神社)のことです。 【駐車場】 ■ 当社駐車場のご利用につきましては、参拝者の方のみ無料でご使用いただけます。その他の用途で駐車場をご利用いただく場合は、有料とさせていただきます。 ■ 夜間(18:00以降)の駐車場はご使用いただけません。無断駐車を確認した場合は、直ちに飯塚警察署に通報させて頂きます。 ■ お正月三が日など、大変混雑致しますので、駐車場をご利用いただけない場合もございます。予めご了承お願い致します。
33.6409746
130.6838592
0948-22-0511
https://kankou-iizuka.jp/images/topic/mapicon.png
曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)
福岡県飯塚市宮町2-3
https://kankou-iizuka.jp/img/topic/39_thumbnail.jpg
買う
食べる
亀屋延永(かめやのぶなが)九州銘菓羊羹黒ダイヤ、白ダイヤ、福おかし、田川饅頭はもちろん、その他季節折々の和菓子を揃えております。本店の飯塚店では、さわやかな風景を楽しんでいただける喫茶コーナーに加え、茶道を嗜まれる方に喜んでいただける茶室もご用意しております。お気軽にお立ち寄りくださいませ。
観る
滑石刻真言(かっせきこくしんごん)福岡県有形文化財 飯塚歴史資料館にて展示
大里酒造(おおさとしゅぞう)「酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」。名槍・日本号を呑み取ったという逸話で有名な黒田藩大隈城主・母里太兵衛友信は、仁義を重んじ、知恵と勇気を兼ね備え、酒を愛していました。大里酒造では、酒米の微妙な手ざわりや、気候・気温のわずかな変化に対応して「気配りの手造り」にこだわり、伝統の美酒を醸し続け、太兵衛の「酒を愛する心」を今に伝えています。
笠城ダム公園(かさぎだむこうえん)笠城ダム公園は広い敷地のあちこちに子ども向けの遊具があり、散策しながら体を使って遊べます。池の全周を取囲む遊歩道は舗装されており平坦で勾配が無く歩きやすいのでウォーキングにも最適です。また豊かな自然も満喫することが出来ます。春は遊歩道沿いのサクラやツツジが有名で多くの花見客で賑わいます。秋は色々な種類のドングリ拾いが楽しめます。
阿弥陀寺(あみだじ)黒田長政が太養院に宿泊した際、腹痛を起こし川津村の阿弥陀如来に祈願すると、その霊験により瞬時に回復したと伝えられます。長政が参拝した時に駕籠を置いた場所に「黒田長政公駕籠置場の碑」が建っています。
長崎街道飯塚宿(ながさきかいどういいづかしゅく)長崎街道・飯塚宿は筑前六宿の中で最も変貌を遂げています。 飯塚宿は縄文・弥生時代から開け、前漢との交流もあった先進地で、穀倉地帯でもありました。江戸時代は遠賀川水運の河岸と長崎街道の宿場町として栄え、明治になってからは筑豊炭田の中心地としても繁栄してきました。