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< お知らせ >
嘉穂劇場は令和3年5月18日より当分の間休館いたします。
開館の時期が決まりましたら改めてお知らせいたします。

お問合せ先:飯塚市役所 教育部 文化課 文化施設整備推進係 TEL 0948-43-3448(直通)
      一般社団法人飯塚観光協会 TEL 0948-22-3511

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福岡県飯塚市に嘉穂劇場があります。開場は昭和6年、江戸時代の歌舞伎様式を伝える木造の芝居小屋です。
間口10間(約18m)の大きな梁を構成することで、柱を使わずに建てられた千二百人を収容する客席は、この地がかつて炭鉱で栄えていたからできたと云える贅沢な空間です。
明治時代に日本の近代化を支えた、福岡県の筑豊炭田。時代と共に炭鉱(ヤマ)は閉山し、その川筋に50あまりあった芝居小屋の中でただひとつ残ったのが、この嘉穂劇場です。
大正11年、今の劇場の前身となる「中座」として開場して以来、役者、歌手、噺家など、さまざまな演者たちがこの舞台でその芸を披露し、多くの人たちを楽しませてきました。
火災、台風による倒壊、洪水による浸水…。そんな苦難・災難も乗り越え、今も生き続けています。
「ここに日本の舞台があった」と、役者を惹き付け続ける、歴史ある芝居小屋、嘉穂劇場。昔ながらの劇場の機構を多くの方に知っていただきたいと、劇場内の一般公開を行っています。九州観光の際には、ぜひお立ち寄りください。
2006年には国の登録有形文化財に指定され、2007年には近代化産業遺産として経済産業省より認定を受けました。

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名称嘉穂劇場(かほげきじょう)
住所福岡県飯塚市飯塚5番23号
アクセス西鉄飯塚バスターミナルより徒歩7分、JR飯塚駅より徒歩15分、JR新飯塚駅より徒歩20分

33.6364864

130.6871535

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http://kankou-iizuka.jp/images/topic/mapicon.png

嘉穂劇場(かほげきじょう)

福岡県飯塚市飯塚5番23号

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三拍子(さんびょうし)
平成元年、飯塚で最初のもつ鍋専門店として創業した三拍子のルーツは50年以上前の昭和20年代という炭坑景気真っ盛りの頃、現オーナーの祖母が経営していた田川の焼肉店「食堂苑」当時のとんちゃん鍋にさかのぼる。在日一世の祖母直伝の醤(ジャン)やホルモン調理法によって引き継がれたのが、「もつ鍋」「石鍋もつ焼」開店以来の看板メニューとしている。 《営業時間》 17:00〜02:30 《定 休 日》 日曜日 《団体予約》 可 《駐 車 場》 無 2013.11.1より「ほるホル丼」ランチ始めます!限定30食、12:00?14:00まで。 ■夏メニュー紹介 夏のコース1人前 2,500 ”  飲み放題付 4,000 夏のコース(4人前) 手前より時計回りに、 豚玉お好み焼き鉄板チーズクルトン 夏野菜と新鮮魚介の冷製パスタ 手羽先のピリ辛揚げ フランスパンのグラタン デザート盛り 季節野菜の15種サラダ じゃこと明太子のご飯 海老のチリソース 串焼き盛り合わせ ■冬メニュー紹介 三拍子のヒットメニュー 本日のお刺身 季節野菜の十五種サラダ フランスパンのグラタン 揚げ海老のチリソース 串焼き各種 手羽先のピリ辛 鮭とじゃこのご飯 自家製マンゴープリン&コーヒーゼリー 写真は上記、2500円コース4名の料理 他、新鮮な魚介類が豊富な3000円コースと 釧路直送カニの付く贅沢な3500円コースがあります。

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柳原白蓮 歌碑(やなぎはらびゃくれん かひ)
柳原白蓮歌碑 「筑紫の女王」とも呼ばれ、飯塚に縁のある歌人柳原白蓮の歌碑が旧伊藤伝右衛門邸近くと嘉穂劇場近く、飯塚商工会議所近くの遠賀川河川敷、北九州に向かって左岸に計3基建立されています。 ■歌碑概略 ■嘉穂劇場側の歌碑概略■ 師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして 解説 早春の頃に自分の師が遠い九州の地に来て頂く折に博多駅へ出迎えに行く途中、八木山は新緑に萌え、若葉に自分の心境をだぶらせ、清清しい気分で峠を越え師との再会に心も弾んでいた気持ちを表した歌です。 ■飯塚商工会議所側の歌碑概略■ 遠賀川 小暗き中に 銀色の 光りは長く 夜は明け染めぬ 解説 遠賀川は、うす暗い中にも川面は銀色に輝き、夜が明けていく風情を詠った歌です。 ■旧伊藤伝右衛門邸側の歌碑概略■ おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ 解説 晩年にわが身をふりかえり月の満ち欠けと自分の一生を思い合わせて「わがこしかたに何をなげかむ」と強く生きる覚悟を表した歌です。 ■『踏絵』 白蓮著 『踏繪』は柳原白蓮が最初に出した歌集で、若き白連の告白的短歌の結晶といわれ、大正4年3月に竹柏会より出版されました。「白連は藤原の女なり。」で始まる序章は佐佐木信綱、装丁は竹下夢二による物です。浪漫的であでやかな作風、夢と悩みと憂愁と沈思のこもった300余首が綴られています。 『踏絵』には、夫の愛情を感じられない暮らしから生じた悲痛なまでの孤独や、鮮烈な言葉で恋心を詠んだ火のような歌が数多く詠まれています。白蓮は、その処女歌集により歌詠みとしての名声を手にしました。 その後、戯曲『指鬘外道』を通じて宮崎龍介と運命的な出会いを果たします。事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。 『踏繪』は旧伊藤伝右衛門邸内「ミュージアムショップ白蓮」、飯塚観光ネットショップにて販売しています。 ■白蓮の生涯 絵葉書 柳原白蓮 柳原伯爵の家系で愛育された白蓮は、14歳で子爵北小路家に嫁ぐも5年後に離婚。その後27歳のとき、一代で巨万の富を築いた立志伝中の炭鉱王、伊藤伝右衛門と再婚し筑豊の地へ嫁ぎました。大正天皇の従妹にあたる白蓮を迎えた伝右衛門は、豪奢な住まいを用意し、歌集の出版を後押しし、金銭的に何不自由ない暮らしを与えました。しかし、白蓮は伝右衛門の愛情を感じることができず孤独に懊悩し、その苦しみを歌に託すことを生きがいとします。大正7年、白蓮が記した戯曲を通じて知り合った7歳年下の宮崎龍介と出会い、700通のラブレターを交わすほど熱烈な恋に落ち、大正10年に事件を起こします。  「・・・私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。・・・」という内容の伝右衛門への絶縁状を新聞紙上に公開して駆け落ち。姦通罪がある時代に白蓮が起こしたこの行為は、当時大きな波紋を巻き起こし白蓮事件と呼ばれました。 事件後は結核を発症した龍介に寄り添いながら、筆一本で家計を支えます。 最愛の息子の戦死後は「慈母の会」をつくり平和運動に献身。82歳で龍介に看取られるまで幸せに暮らしたといわれています。

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